ちゅったんの香港おばば 目次
誰に似たのか?

10歳から始まった長女の反抗期が15歳になってやっと一山超えたと思ったら、10歳の次女の反抗期開始。
長女の時は、とても長く感じ反抗期なのか反抗的な性格なのかわからなくなってきて、最後にはどっちでもよくなっちゃいました。
その都度本気で向き合ってきましたが、毎回本当に腹立たしく、何度ケンカしたことか。
私もオットも子どもの頃は割といい子で育って来たので、「一体誰に似たのか?」と首を傾げている。

私はお気楽なタイプだけど、オットは真面目で教育熱心なものだから、細かく注意する、そして改善しない時には、口調は穏やかだけど長い長いお説教が待っている。
最短1時間、平均2時間ですね。
とにかく私たち夫婦は10代二人に振り回されっぱなし。

そんな私たちを慰めてくれるのは、マミー。
オットがマミーに娘たちの苦情を言うとマミーは、「困った子たちだね、でも2人ともいい子だよ。私の子どもの頃に比べたら、どの孫もいい子。」と本気で言っている。
マミーによると小さかった頃、相当なお転婆で、男の子に生まれたらよかったのに、といつも言われていたそう。
マミーは広州で子ども時代を過ごし、小学校に通っていた。
ただ、小学校が山2つ徒歩で越え始業に間に合うためには、朝暗いうちに家を出なければいけない。
遅れると先生に手のひらを大きな物差しで叩かれる。
遅れるのが嫌で、学校に行くと行って家を出たら毎日空き地で遊んで学校へ行かなかった。
普通の家庭には電話はない時代だったので、何日も無断欠席を心配して担任の先生が山を越えて家庭訪問にやってきて、マミーはお母さんとお姉さんにこっぴどく叱られる。
しょうがなく学校にはちゃんと行くようになったけど、帰りに友達と人の畑の芋を掘ったり、男の子とケンカして泣かせたり、宿題はやらない、勉強はしない、家族からも先生からも呆れられていた。
10歳上のお姉さんは師範学校の学生で、美人で優等生だったので、マミーのやんちゃは余計に目立っていたことでしょう。
そのうち抗日運動が起こり、マミーの家族は広州からマカオに移住。

マミーはお母さんのお腹の中にいる時にお父さんを病気で無くしており、清朝の地方高官の家系でかつては裕福だったのに清朝崩壊とともに親戚は海外に移民したり、事実上没落。
マミーのお母さんは、たくさんの貴金属をマミーの綿入れの中に縫い付けてマカオへ渡ります。
生活のために、一つずつ貴金属を売り、時に麻雀で稼ぐ。
マミーのお母さんは、かつて経験のしたことのない貧しい生活で次第に心身ともに病んでいきました。
心臓肥大になっても治療費も足りず、薬を買ってマミーが注射してたそうです。
マミーは、マカオでも小学校に行かせてもらっていたけど、経済的にいつまで通えるかわからないとわかった途端、ガリ勉になったのでした。
とにかく時間があれば勉強し、飛び級を重ね、中1で中学を卒業します。
広州でのお転婆時代とは別人のよう。

そして香港に移り、13歳で工場で働きはじめ、お姉さんはお金持ちの家の住み込みの家庭教師をして、家計を支えます。
結婚してからもずっと働き詰めの人生、苦労の連続。
マミーの昔の話を、実は息子たちはあまり知らない。
旦那さんは家にお金を入れなかったので、働きながら5人の息子とお姑さんの世話をするのに、思い出話をする暇もなかったのでしょう。
私はマミーの思い出話を聞くのは嫌いじゃない。何度も同じ話を聞いているけど、その度に大変苦労したのに今はいつも笑顔ですごいなと感心してしまう。

そして、娘たちの反抗期に話を戻すと、オットと私は腹立たしいことがあると「この子たちは一体誰に似たのか?」と首を傾げているのだが、「子どもの頃のマミーだ!」と結局そこに落ち着くのです。
多少お転婆でもいいけど、大きくなったらマミーのように働き者で、正直で、正義感が強く、心優しいところもに似てくれることを願っています。

chuttan

Oct 22, 2018

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