インタビュー くらす香港

くらす香港 捌「香港で日本舞踊を伝えること。 水の流れに乗ってたどり着いた私の使命(前編)」 若柳智香さん


インタビュー くらす香港

 


くらす香港 捌「香港で日本舞踊を伝えること。 水の流れに乗ってたどり着いた私の使命(前編)」 若柳智香さん

暮らしてみて見える・感じる香港を各フィールドで活躍する女性に伺いました。

<プロフィール>

職業:日本舞踊家。高知県出身。幼少より日本舞踊を学び、様々な舞台の経験を積む。若柳智寿氏に師事、若柳流一級師範。1990年結婚を機に香港移住。 1999年に若柳流日本舞踊教室「香の会」を設立。 公益社団法人日本舞踊協会会員・高知県支部所属。「若柳流日本舞踊香の会」主宰。 平成30年度外務大臣表彰授与。香港公開大学日本研究課程校外顧問。発表会をはじめ、在香港日本国総領事館主催の国際文化交流事業に参加するなど、年間を通じて様々な舞台に立ちながら日本舞踊の普及と教育活動に務める。

日本舞踊との出会い

日本舞踊との出会いは母がきっかけでした。幼少の頃の私は母に連れられて、近所の同級生と共に花柳流の日本舞踊の先生の元に通いました。稽古は厳しく扇子でビシビシと叩かれた記憶があります。私はよほど出来の悪い子供だったのかもしれません。でもどんな稽古だったのか覚えてなく、稽古に行くのが嫌で柱にかじりついて泣いていた記憶だけが残っています。私は母が決めたことに従うだけで、踊りが好きとか楽しいという感情は持っていませんでした。

中学生になるとバスケットボール部に入り、これぞ青春!とばかり、毎日部活に明け暮れました。その間は日本舞踊の稽古を休んでいました。でも今でもあの頃スポーツをして良かったと思います。バスケで鍛えた身体と精神は日本舞踊にも通じるからなのです。どちらも「心技体」のバランスが必要です。日本舞踊はヤワでは続けられない、体育系の芸事だと思います。

高校生になる頃に母はまた新しい先生を探してきました。母は次々と高知市内から先生を探して来て、ついに私は今の師匠、若柳智寿(ちじゅ)先生と出会うことになりました。先生のお稽古場に通うようになってから本格的に古典の日本舞踊を学び、その面白さを初めて教わりました。何よりも踊っている時間とその空間が心地よく、夢中で稽古に励みました。
  
若柳流のお名前をいただいたのは20歳ごろです。芸名は通常、師匠の名から一字いただきます。私は師匠の「智」の一文字と私の本名「由香」の「香」をとり、「智香」と決めました。最初は「智香」と書いて「さとか」と読みました。でも誰も「さとか」と呼んでくれることはなく、「ちか」でいいじゃないのと周囲に言われたため、「ちか」の読み方に改名しました(笑)。

先生の名の一文字と私の名の一文字。師匠の弟子である証と、私が私である証。ただそれ以外の思いは何も浮かばず生まれた名前でしたが、単純に決めたのが良かったのか、この名前は総格や画数など全て大吉揃いでした。実は私の本名は一部の格のみが大吉で他は全て大凶なのです。これまで何をしても苦労続きだった私の人生でしたが、仕事柄、芸名を使うようになってから運勢がどんどん良い方向に流れはじめたように思います。

香港で待ち受けていた生活

香港へ来る前に様々なことがあり、実は日本舞踊をやめることを決心して日本を飛び出してきたのです。でも香港に移住すると何事もなく穏やかな生活が始まりました。ただ当初は言葉ができず、友達もおりませんでした。香港人の夫だけが頼りの寂しい毎日を過ごしていました。

1990年香港移住当初スタンレーにて
(写真:本人提供)

 

そんな折、私の結婚に猛反対し今生の別れをしたはずの両親が香港まで会いに来てくれました。夫の家族は結婚を反対した私の両親に一言の愚痴も言わず、精一杯のおもてなしをしてくれました。

私の両親が香港滞在中にレストランへ連れて行った時のことを今でも鮮明に覚えています。母が生まれて初めて話した英語は「ウォーター、プリーズ!」。「通じた、通じた!」と喜びはしゃぐ母の顔を思い出すと今でも泣きそうになります。母に反抗して日本舞踊を捨てて香港に来たのですが、やはり私たちは「母と娘」でした。結婚前の涙に明け暮れた日々がまるで嘘だったかのように、ぎくしゃくしていた私たち親子の関係はいとも簡単に修復できたのです。
 
こうして実家とのわだかまりが解決し、新天地での私の人生がいよいよ始まりました。これからは何のしがらみもなく優しい夫に守られて自由に幸せに暮らせる! と思っていました。しかし現実は甘くはなかったのです。幸せはわずか3年足らずで、あっけなく終わりました。そう、私は大凶の名の持ち主でした。精神的なこと、経済的なこと、社会的なこと、実家のこと。これでもかと言うほどに、次々と災難が降りかかって来ました。身動きができない時には、ただ時間が解決してくれることを祈り、じっと耐え続けました。

その一方で、仕事面では大変恵まれておりました。日系大手通販会社でパート勤務を開始したのですが、後に正社員になりマネージャーとして働きました。その後も別の新会社で働く機会をいただき、立ち上げから事業が軌道に乗るまでの一通りの仕事を経験させてもらいました。企業経営の苦労や喜び、達成感や喪失感。こうした全てのプロセスを勤務先で学びました。これらは私の身となり財産となり、その後の日本舞踊人生の基本となりました。

こうした仕事は自分で探したことはなく自然と話が流れてきたのですが、どこに行き着くのかと深く考えることもなく、ただ直感だけを頼りに身を委ねて来ました。ですから時には大失敗したことも、また信用を失った経験もありましたが、どんな困難なことでも精一杯やってみようと突き進んで参りました。踊りも同様に「やってみないか」と人から機会を提供してもらったことがきっかけとなりました。水にふわふわと浮いていた私の人生は、こうしてだんだんと水の流れに乗って動き始めました。

<前編あとがき>
話を伺えば伺うほど、奥の深い若柳智香先生の人生。とても華やかな世界でご活躍されているように思える智香先生の人生の背景には、想像を超えた様々なご苦労がありました。次回はいよいよ香港で日本舞踊家としての人生を歩み始めたお話です。お楽しみに!

取材・写真撮影:龍池千明 March 26, 2020

Apr 29, 2020

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