インタビュー くらす香港

くらす香港 玖「激動の30年間 – 香港と共に歩んできた私の日本語教育人生 (後編)」亀島裕美さん


インタビュー くらす香港

 


くらす香港 玖「激動の30年間 – 香港と共に歩んできた私の日本語教育人生 (後編)」亀島裕美さん

暮らしてみて見える・感じる香港を各フィールドで活躍する女性に伺いました。

<プロフィール>

職業:日本語教師。東京都出身。玉川大学文学部外国語学科卒。日本国内で日本語教授の経験を経て1992年に来港、Pasona Education Co. Limitedに勤務。2014年より同社の日本語課ディレクター。幅広い年齢層、社会層を持つ学習者に対する日本語教育をはじめ、同社における教材・教具開発、社員研修・人材育成も行う。2011年より香港日本語教育研究会副会長に就任。香港小中高生日本語スピーチコンテスト担当理事として、香港の児童・青年の日本語教育発展にも携わる。

96年、当時のパソナの入口にて、(写真本人提供)

激動の香港30年間の中で

日本で日本語教師として3年間教えた後、92年に来港しました。香港では英語が通じることと、また、求人広告を掲載していたパソナに応募し採用されたことで、香港で働くことに決めました。それから約30年来、ずっと同じ職場です。ここに来た当初、当時の校長から「赤い口紅をつけなさい」と言われて、すっかりここが好きになってしまったのです。日本で教師をしていた頃は、化粧やアクセサリーを控えるように勤務先から言われていたので、思い切ってお洒落ができませんでした。それがここでは「教師をしながらお洒落ができる」と知って、若かった当時の私はとても嬉しかったのを覚えています。

私が来港してからのこの約30年間、香港はずっと激動の時代の中にあります。日本人観光客が多く、たくさんの日系企業も進出していた香港バブル期の90年代前半。観光客相手の商売で日本語を使いたい、給料がいい日系企業で働きたいという生徒が多くいました。中国返還の97年前後は海外へ移民していく人たちがいました。2000年以降は、日本の音楽や漫画といった日本のカルチャーが好きで、趣味で勉強したいという生徒が増えました。パソナでは、多い時で100人以上の人が教室の席の空きを待っている時期がありました。03年のSARS流行時には約3週間休校に。まだオンライン授業がない時代でしたが、今回のCOVID-19感染拡大に伴う長期休校と比べると、さほど大きな影響はありませんでした。14年の雨傘運動の頃は、長期に渡り学校近くの道路が占拠され、公共交通機関が使えないことがありました。昨年(19年)の逃亡犯条例改正案による一連の出来事では、デモ抗議活動により、たびたび休校になりました。その時もただ授業再開ができるようになるまで待つだけの状況でした。

学校は、授業がなく教室が空いてしまう時間帯でも、高い家賃を払い続けなければなりません。休校になるような事態が長期で発生した時は致命的です。限られた場所で学生数を増やし、安定した収入を確保する対応策として、ここ数年来、パソナではオンライン授業の導入を検討してきました。ですから、今年に入って長期に渡る休校の措置が取られた時、逆境を転機の時と捉え、早速オンライン授業を開始することにいたしました。対面授業とは異なる、オンライン授業のための教材。その準備に追われ大変ではありましたが、無事に今年の第1期を終えることができました。制作したオンライン教材はパソナの財産のひとつになり、今後は緊急時でもその教材を用いて授業体制を切り替えるなど、いざという時の対応ができるようになりました。

私が私らしくいられる場所、香港

来港してからの私生活は充実していました。ずっと習いたかったバレエをはじめたり、カラオケやパーティーなどに行ったりしました。当時グランドハイアットホテルにあったJJ’s(クラブ)などで、思い切り楽しんだ夜もありました。その一方で、旧正月の休暇は一歩も外出せずに教案を書きためるなど、ずっと授業の準備をしていました。日本でのたかだか3年弱の教師経験では、自信を持って「できます」と言えるほどにはなりません。ですから仕事に対しては真剣に取り組んでいました。

独身時代、仕事に明け暮れる日々でも、友人たちと過ごした束の間の楽しい時間。(写真本人提供)
97年の中国返還まで秒読みに入っていた時。ランカイフォンにて。(写真本人提供)

 2008年のクリスマスに家族で。(写真本人提供)

夫とは、パソナで広東語を学ぶ知人を通して知り合い、結婚いたしました。いま高校生の息子は、香港生まれです。息子が幼少の頃も仕事を辞めず、フィリピン人のお手伝いさんを雇い、家庭と仕事を両立させました。これは香港にいたからこそ、できたことです。日本にいたら親戚一同から大ブーイングだったことでしょう。お手伝いさんとの時間が長かった息子からは、「ママの味はフィリピンの味だ」と今でもからかわれますが、香港では「女性にも生き方の選択肢があるのだ」と思いました。

香港に来た当初は香港人のことをよく知らなかったのですが、香港人は積極的に海外へ留学したり、女性でも修士・博士号を取得したり、社会の中で実力を発揮して高い職位に就いたりと、日本より遥かに国際的で進んでいる国だと感じます。
日本語の授業で「結婚したら仕事を辞めます。」という例文があるのですが、香港人の生徒は「どうして?」と首を傾げます。結婚したら仕事ができなくなる感覚は、香港人にはありません。日本では様々なところで女性の行動に対する縛りがあります。そうした縛りに息苦しさを感じていたのですが、ここ香港では、女性に自由があり、選択肢があります。個人の生き方が尊重されます。未婚であろうが、幼い子供がいて働こうが、責められることはありません。40歳くらいの香港人女性が「キティちゃん、可愛い。」と言ったりします。そんな感覚も大好きです。香港人のちょっといい加減なところや気楽さが私にはしっくりきて、ここでは、私が私らしくいられるのです。
この30年間、時代は大きく変化し、香港にも、日本語教育に携わる私の仕事にも様々なことがありました。が、日本に帰ろうと思ったことは、これまで一度もありません。これからも私の生活の基盤は香港です。そして、世界の様々な教育現場と繋がりながら、日本語教育に関わる仕事をずっとしていきたいと思っています。

<10の質問>

1. 香港で一番驚いたこと、カルチャーショックだったことは?
最初から香港の印象は良かったです。中国返還前の当時は、西洋と東洋の文化が融合した街がとても刺激的で、インターナショナルな雰囲気がありました。そして様々な音、いろんな匂いがする街。それもまた香港の魅力でした。

2. 香港のすごくいいと思うところは?
高級ホテルの敷居が低いので、食事等でホテルを気軽に利用できますね。以前は美味しいコーヒーが飲める場所はほとんどなかったので、たまにマンダリンオリエンタルホテルのラウンジまで、チーズケーキ&コーヒーを楽しみに行っていたこともありました。

3. 香港のちょっと残念だと思うことは?
タクシーの争奪戦。今はあちこちにタクシーが流れていますが、MTR路線が少なかった頃はタクシーに乗る人が多く、道端で先にタクシーを待っていたのに、他の人が前に割り込んで来てタクシーを奪われてしまうことも。悔しかったですね。

4. 香港で食べたもので一番美味しかった料理は?
ペニンシュラホテルにある広東料理レストラン「スプリングムーン」のフカヒレスープ。たった1回しか食べたことはないのですが、それでもよく覚えています。美味しいものには自然と笑みが出ますが、つい笑ってしまうくらい美味しかったです。

5. 苦手な料理は?
鶏の手脚。

6. よく買うお土産は?
QuartetのクッキーとTEA WGの紅茶。

7. 案内したい場所は?
ラマ島のハイキングと海鮮料理のコースもいいですし、早朝、セントラルからピークまで1時間ほど登って日の出を見るのもいいですよ。香港島の高層ビルの合間から差し込む日の出の陽光がとても美しく、空の色が少しずつ変わっていく朝焼けを山頂から見るのは最高です。

8. 好きな場所は?
TSTのカルチャーセンターなど劇場が好きです。劇を見ている間に寝てしまうことがあるですが(笑)。また近所にある小高い丘も好きで、考え事がある時に30分ほど往復します。

9. 香港で得た一番の財産は?
香港で出会った夫と香港で生まれた息子。香港で得た一番の財産は、私の家族です。

10. 香港で挑戦したいこと、やりたいことは?
広東語・英語を勉強し直したいです。日々、英語や広東語のニュースを聞く必要性を感じていますし、外国語を勉強するのはやっぱり楽しいですね。

<あとがき>
この30年間、香港では様々なことが起こりました。今も大きな時代の流れの中で、香港は変わり続けています。その中で生きてきた人たちの人生も、時代に大きく翻弄されてきました。今回取材した亀島さんも、その一人です。ですが、亀島さんは、時代の流れの影響を大きく受けながらも「日本と香港をつなぐ架け橋」として、常に前向きに日本語教育の発展に貢献し続けています。来港当時と変わらず香港を愛し、女性の生き方を尊重する香港での生活を楽しむ亀島さん。取材を通して、ポジティブなメッセージをたくさんいただきました。

取材・写真撮影:龍池千明 June 17, 2020

Aug 31, 2020

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