インタビュー くらす香港

くらす香港 玖「激動の30年間 – 香港と共に歩んできた私の日本語教育人生 (前編)」亀島裕美さん


インタビュー くらす香港

 


くらす香港 玖「激動の30年間 – 香港と共に歩んできた私の日本語教育人生 (前編)」亀島裕美さん

暮らしてみて見える・感じる香港を各フィールドで活躍する女性に伺いました。

くらす香港 玖「激動の30年間 - 香港と共に歩んできた私の日本語教育人生 (前編)」亀島裕美さん

くらす香港 玖「激動の30年間 - 香港と共に歩んできた私の日本語教育人生 (前編)」亀島裕美さん

<プロフィール>

職業:日本語教師。東京都出身。玉川大学文学部外国語学科卒。日本国内で日本語教授の経験を経て1992年に来港、Pasona Education Co. Limitedに勤務。2014年より同社の日本語課ディレクター。幅広い年齢層、社会層を持つ学習者に対する日本語教育をはじめ、同社における教材・教具開発、社員研修・人材育成も行う。2011年より香港日本語教育研究会副会長に就任。香港小中高生日本語スピーチコンテスト担当理事として、香港の児童・青年の日本語教育発展にも携わる。

おとなしい私がリーダーへ

私は日本語を教える仕事に30年以上、携わって参りました。これまで大勢の前で教壇に立ってきた私をご存知の方は驚かれるかもしれませんが、私は子供の頃、とてもおとなしい性格でした。
父親の仕事の関係上、東京で生まれ育った私と3つ違いの弟は、幼い頃、都内を点々とし、小学生の頃に八王子市へ引越しをしてからは、ずっとそこで育ってきました。
小学校の時、小林先生というクラス担任の先生がいたのですが、先生が家庭訪問にいらした時、「将来、あなたはリーダーになりますよ。」とおっしゃったことがありました。子供の頃の私は特に目立つような生徒ではなかったので、先生が何故そのようなことを思われたのか今でも分かりません。ただ気がついたら、年度の後期には、周囲から推されて学級委員になっていることがたびたびありました。

 

人生に影響を与えた失敗経験

私が通っていた高校・玉川学園は英語劇部が有名です。生徒が主体となって、英語によるミュージカルを作ります。同学園出身で活躍している俳優には、宮本亞門氏、藤田朋子氏など多くの方がおります。幼少期からバレエや踊りを習いたかった私も、英語劇部に入りたいという思いがあったのですが、参加している人たちの輝きに気圧されて、その世界に入る勇気がありませんでした。
そんなシャイだった私が、変わる出来事がありました。高校生の時の交換留学で、アメリカのLAに1ヶ月間のホームステイをした時のことです。見るもの、聞くもの全てが衝撃的な毎日。積極的な人たちは、すぐに仲良くなっていきました。でも、私は恥ずかしくて何も話せなかったのです。ホームステイ先の母親が、何も話さない私を心配して、学校の先生に相談したほどでした。自分の言いたいことを、上手に表すことができなかった…。帰国後もその時の悔いが残り、「自分を変えたい」と思ったのはこの頃からでした。
この失敗経験が私を後押しし、大学に入ってからようやく、英語劇部の入口に立つことができました。大学ではフランス語を専攻していたのですが、フランス語の教授から「英語ばかり勉強しないように」と釘を刺されたほど、英語劇部の活動に没頭しました。そこでは「ピピン」「グリース」など、さまざまな劇に参加しました。人前で表現することは勇気が要ることです。でも演劇の世界へ導かれた私は、そこで少しずつ自分に自信を持つことができるようになっていったのです。

 

日本語教師への一歩

大学を卒業して食品メーカー会社で3年間勤務後、再びアメリカへ留学することに決めました。高校生の時の苦い留学経験の後悔から、今度こそ脱却したかったのです。そして再び留学したこの経験が、私の人生を決めることになりました。というのも、この1年間の海外滞在で私と外国人との距離はすっかり縮まり、帰国後には日本語教師の職を目指して勉強を開始したからです。日本語教師養成講座を修了すると、すぐに勤務先の学校が決まり、日本語教師としての人生が始まりました。

私が日本語教師の勤務を開始した88年頃は「留学生受け入れ10万人計画」の政策を推し進めており、留学生の増加が著しい時でした。語学学校も、そこで教える教師も不足していました。中国からの留学生が大半を占めており、一つの教室に溢れるほどの生徒がいたのです。当時の中国は今ほどの経済力を持つ国ではありませんでした。ですから、純粋に日本語を学ぶ留学生がいる傍ら、日本で働いて稼ぐという目的で来日していた学生もいたのです。

日本語教師として最初に働いた学校では、毎日のように驚く光景を目にしました。政治的な考えの食い違いによる生徒同士の喧嘩もありましたし、働いた疲労から死んだように倒れ込んで眠っている生徒もいました。またある時は、授業中にどこからか「パチン、パチン」と音がしてきて、「いったい何の音だろう」と思ったら、女子生徒がストッキングを脱いで足の爪を切っていたこともありました。

一方で、尊敬に値する生徒もいました。中国に一時帰国していた生徒からお土産をいただいたことがあるのですが、その生徒がお土産をきれいにラッピングしてくれていたんです。包装紙は新聞紙の広告だったのですが、とても丁寧に包まれていて、その人の律儀で礼儀正しい人柄が伝わってきました。また、全く日本語学習が初めてなのにも関わらず、たった6か月間の勉強で一橋大学に合格した生徒もいました。多くの人がアルバイトに明け暮れる中、その生徒だけは授業後も必ず図書館で勉強をしていました。このように初めての学校の現場では様々な生徒がいたため、精神的にかなり鍛えられました。そして、私の目は再び海外へと向き始めました。

<前編あとがき>
教師歴30年以上というと、これまで数えきれないほど多くの人に教鞭を執ってきたのは想像に難くありません。そんな亀島さんが子供の頃は、恥ずかしがり屋でおとなしかったというので驚きましたが、留学での失敗経験(マイナス)からプラスに転じる生き方になった話には、誰もが勇気をもらえるのではないでしょうか。次回は亀島さんが香港に渡ってから、さらに自分らしい生き方を見つけた人生ストーリーです。

取材・写真撮影:龍池千明 June 17, 2020

Aug 3, 2020

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