香港子育て回顧録 -これまでも、これからも

胸ときめく「さようなら」

胸ときめく「さようなら」

香港子育て回顧録 -これまでも、これからも

白井純子 

愛知県出身。大学では日本国文学科専攻。北京電影学院留学中に香港人である現在の夫と出逢う。長男を東京で、次男を香港で出産。

2014年夏に9年間暮らした香港から大阪に帰国。帰国後に保育士資格とチャイルドマインダーの資格を取得。

2019年夏から息子達の留学のためバンクーバーに滞在中。現在の関心ごとは「Sustainability」。

 


胸ときめく「さようなら」

日本語の別れの挨拶「さようなら」は、他の言語と比べてかなり珍しい語源から来ている。他言語においての別れの挨拶は、相手に対して神のご加護があるように祈る意味や、再会を願う意味が込められていることが一般的だ。しかし、日本語の「さようなら」は、「左様なら」つまり「そのようであるならば」という意味からできた。本来はこの言葉の前と後ろに文があり、それをつなぐだけの役割だった「左様なら」が、別れの際に使われる挨拶の言葉として独り立ちしたようなものである。例えば、『あなたはひどく疲れた様子だ。左様なら、今日はこれで帰宅しましょう。』という使われ方が本来の形だった。「さようなら」自体には祈りも願いもなく、別れという状況に直接結びつく意味さえもなかったのだ。

実はこの「さようなら」の語源については、先日見たあるテレビ番組が紹介していたものの受け売りだ。前から知っていた内容だったので、驚きもせずに見ていたのだが、これについて説明をしていた大学教授の言葉に衝撃を受けた。教授はこの挨拶が日本人特有の『忖度』文化から来ているという。物事をはっきりと表現することなく、「こんな雰囲気なのでそろそろ、そういうことで」と相手に察してもらうことを前提とした表現になっているそうだ。かなり昔から『忖度精神』は日本人に根付いていたのだ。

現在日本の社会で大きな問題になっている『忖度』。政治スキャンダルの陰には『忖度』が潜んでいる場合が多く、権力者の意向をうかがいながら行動する『忖度』のために事件の真相が究明できないことが多い。なので私個人的にはあまり『忖度』という言葉に良いイメージがない。けれどもだ、番組の中の教授の言葉から以前は自分の中にも「察して欲しい、察してくれて当たり前」という思いがあったことに気づかされた。

香港人の夫と付き合い始めてすぐの頃、夫が私の思いを忖度しないことを不満に感じたことを覚えている。「なんで分かってくれないの」「はっきり言わなきゃ分からない」という会話を何度繰り返しただろう。日本人の「察してくれて当たり前」が外国人には通用しないということを知った。一種のカルチャーショックだった。

『忖度』が『思いやり』の変形なら、日本人の誇るべき文化の一つになりうるのかもしれない。意思を明確にすることから逃げるためのものなら、グローバル社会の中では日本人の欠点になりうる。日本人として守るべき文化と見直すべき文化が『忖度』の中にあるのが興味深い。

学校に通う子供たちは下校の際に「先生さようなら」と挨拶する。しかし、仲の良い友人と引越しなどで別れる際「さようなら」という言葉を使わない人は多い。形式的な場面では使うけれど、本当の別れの場面では使いにくい言葉なのだ。私も「またね」「元気でね」などを使う。別れという悲しい状況を決定的にしたくないからだ。我ながら何と繊細な気持ちのやり取りなのだろうと改めて気付いた。「さようなら」という接続詞が別れの挨拶になるこの国の奥深さに、何だか胸がときめくような気がした。

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